みんなと同じようにPC操作をしたい。その願いのお手伝いができたらうれしいです。

「できマウス。」プロジェクトについて

開発の動機

開発の動機


Sさんは、上肢障害でキーボード操作が困難でした。プレステのコントローラは緊張も少なく利用できることを知り、GamePadを使った入力方法を検討しました。PC誌でGamePadを用いて文字入力ができるソフトを探していたところ、「パッドdeマウス」というソフトが目にとまり、試したところ期待通りのソフトでした。その後、JoyToKeyというソフトとも出会いました。2000年7月のことでした。 両作者ともに、ユーザー補助や仮想キーボードの充実、アプリ同士の連携など、私からのプログラム追加願いを快諾していただきました。
パッドdeマウスやJoyToKeyは、ゲーム専用ソフトでしたが、今では、多くの方々に入力支援として愛用されるソフトになりました。 その市販のGamePadは、半年ほどで接触不良になってしまいました。同じ、GamePadを購入しようとしましたが、製造販売は終了していました。 それならばと、GamePadを自作することにしました。ファームウェアも試行錯誤しながらの開発が始まりました。 開発の様子は「できマウス。」プロジェクトのHPで公開しております。

「できマウス。」開発にあたって

スイッチの利用について、私は、インターネットで調べてみました。マウスやキーボードから引き出したコネクタに接続する事例を多く見かけました。マウスやキーボードインターフェイスを利用したものでした。また、電子回路を駆使されてマウスやキーボードの機能に置き換えるものもありました。 これらは、製造コストを低く抑えることが難しいことや、機能変更時には部品交換や改造が必要になるのではと思いました。マウスやキーボードから線を出してスイッチを接続する手法はシンプルですが、近年はそれらを解体すると部品が飛び出たり、プリント基板がフィルム状になっていたり、部品の小型化などで半田付けが困難な状況があるのではと思いました。 市販品についても調べた結果は、BOX型で機能も固定的なものが多く見られました。
そこで私は、部品代を安価に抑えることができるように、また機能追加が容易に行なえるように、スイッチインターフェイスの機能はソフトで作ることにしました。 スイッチインターフェイスとして「できマウス。」を開発すれば、サポートされる方は、スイッチそのものの工夫に専念できるのではないかと思いました。 「できマウス。」のケースは、勤務先の製品で使用しなくなったケースを利用しました。すべての部品がケース内には収まらなくなり、制御部と接続部に分けて取り外し可能にし、コネクタも入手しやすいD-SUB25ピンにしてコネクタピン配置も公開しました。 これによって、スイッチ接続部の交換が可能になり、多くのスイッチが利用できる「φ3.5x12ユニット。」、ACアダプタを兼ねる「5-12Vユニット。」、無線で利用できる「コードレスユニット。」などを開発して、利用者様のニーズに合わせて利用することができるようにしました。 USBを利用することで、電源の必要なセンサーなどのACアダプタを不要としました。

ホームページ開設とその効果

私は、地元のパソコンサポートボランティアに属しておりました。開発を始めて間もなく、会の代表がUさんを伴って来訪されました。代表は、「これだけのものは、多くの人に知っていただく価値がある」、またUさんからは、「ホームページを開設するなら、無償提供できますよ」と思いもかけない言葉をいただきました。早速2001年5月、ホームページを開設させていただきました。ホームページの来訪者数は、一ヶ月で700件(2023年では110万件)を超え、自分でも驚きました。そうして、その効果は具体的に表れました。 国立リハビリテーションセンターのIさんが来訪されました。それまでに、入力支援機器扱い業者様や、福祉機器関連で著名な先生にサンプルをお送りして、評価をお願いしていましたが、中には、開封もされずに返却されたこともあり、ニーズがあるのか不安でしたので、Iさんの来訪は開発の大きな励みになりました。 その年の秋には、都立養護学校のK先生から展示会への出展の依頼をいただきました。作りたての「できリング。」を持参し、不安を抱きながらの出展でした。展示してみますと二重三重の人垣ができ、ここでもニーズがあることを知ることができました。 ホームページ開設から1年後には、専用のメーリングリングリストも開設し(現在はFacebookを活用)、利用者様や現場の声が聞けるようにもなりました。

開発中の応援メッセージ

インターネット活用の中で初めてALSという言葉を知りました。故Nさんのページでした。同世代ということもあって、そのホームページは、涙でかすんで読むことが困難でした。早速「スイッチ1個でパソコン操作する機器を製作しております。」とメールを書きました。返事には、「思い上がらないでください。私たち障がい者のことをもっと理解してください。」との厳しい文字が並んでいました。

展示会では、N社の担当者とこんなやり取りもありました。 「あなたは、来年はやっていないでしょうね。」 「えっ!どうしてですか?」 「こんな価格では、無理だからです。」 当時から、なんとか1万円で済む価格を考えておりました。厳しい応援メッセージと受け止め現在に至っております。 文字入力支援ソフトとして、アライド・ブレインズ社からPeteが発表され、その入力装置として「できマウス。」を推奨していだいたことや、マイクロソフト社から、展示会のお誘いと共に、Microsoft Assistive Tecnolgy Vendor Program メンバーに加えていただきましたことは、大きな励みになりました。 リハ工学協会の福祉機器展を知り、応募いたしました。万が一入選したなら展示していただけるかなーの思いでした。結果は、最優秀賞をいただき、多くの関係者の集まる中で展示説明をさせていただきました。 ATACでの展示と講演の機会を与えていただきましたことも、大きな励みになりました。

「できマウス。」の特長

「できマウス。」は、PCに挿入しただけでは何の役目もしません。その反面、ソフトを利用することで、マウスやキーボードの機能を自由に与えることができます。 手ぶれ対策も電子回路がなくても実装できるようになります。スイッチを押したときに反応、あるいは、放したときに反応させることもソフト制御で可能になります。 「できマウス。」で「できチョンツー。」のブレーキ機能(アイコンやボタンの上をマウスカーソルが移動するとき、移動速度がゆっくりとなる)は、ソフト処理だから実現した機能です。 設定内容は次回起動時に反映させる必要もあります。設定値はテキストファイルで残すようにしました。これによって、他のPCに同じ設定でセットアップするときは、このテキストファイルをコピーすればOKとなります。設定内容をメールで送れますので、遠隔設定も可能になります。
*現在は、「できマウス。」は「できマウスS2。」となり、GamePad・キーボード・マウスの複合デバイスとなり、”「できマウス。」の仲間たち”の仲間も必須ではなくなり、「できiPad2。」と共に現在のOSすべてに対応できるようになりました。

「できマウス。」の名前の由来

「パソコンの操作ができます」を表現しています。おしまいに○が付いているのは、皆さんにとってOK!となればと願いを込めました。(モーニング娘。にあやかっているという噂?もありますが・・・。  はい、そうですね。ユニットで動作が変更できることも似ていますね。)

開発の壁

勤務先におきまして、USBのCPUのプログラムやデバイスドライバーを作っていましたので、GamePadのファームウェア(CPUのプログラム)は、簡単に作れると思いました。しかし、スイッチ4個までは簡単に認識できましたが、5個以上は認識できませんでした。2001年1月31日から開発を始め、3月上旬にやっと12個のスイッチを認識できるようになりました。 Windoowsになってからは、ハードウェアに関する雑誌記事は皆無に近い状態になりましたので、海外のインターネットサイトの情報を頼りに開発しました。 また、私は、スイッチ類でパソコンを操作されている利用者様のニーズを直接得ることは困難でした。そこで、ここでもインターネットを活用しました。 また、福祉機器や今までの歴史を学ぶ必要を感じ、e-AT利用促進協会のオンライン学習を受講しました。 開発の時間は、夕食後の時間を当てておりますが、これは自分の管理の問題なので、苦労は感じません。 問題は、開発費です。確かに、多くの援助団体があります。しかし、多くの書類提出があり、その作成時間が惜しいし、記載事項によっては現状と合わない記載も自分自身許せないので、見合わせております。

なぜプロジェクト?

「・・・みなさんの1年は、私の一生・・・」と書かれてあったサイトを見て、少しでも早くツールをお届けしたいと思いながら開発していますが、たびたび難問にぶつかります。そのことをホームページ上に記載しますと、解決案をお寄せくださる方もいらっしゃいます。ユーザー様からの嬉しいメールも届き、パワーをいただくことも多いです。皆さんに後押しされている自分に気づき、それからは、「できマウス。」プロジェクトと称しております。 これからも、ユーザー様のパワーや多くの方のご協力で、「できシリーズ。」は育ってまいります。 みんなと同じようにPC操作をしたい!その願いのお手伝いができたら嬉しいです。
日本マイクロソフト社の企業市民活動レポート 2009の紙面に取り上げていただきました。

ファームウェアと私 すべては人との出会いから

電子測定器メーカーへの就職


私は、工業高校電気科を卒業して、電子機器メーカーに就職しました。中学1年のとき、兄から「兄弟のだれかは東京にいた方が良い」と言われ、その時から東京に就職すると決めていました。
ちょうど工業高校が、川向こうの高台に建設が始まっていました。中学3年の時、担任の先生に促されるまま、隣町で受験しましたが奨学金のためのものと後日知りました。家庭の都合で職業訓練所も視野に置いていました。
高校受験料もままならなかったとき、担任の先生に「99年間貸すから受験しなさい」と言ってもらえましたが、当時はその意味がわかりませんでした。
小さな会社でしたが、先輩と仲間に恵まれた。誰一人、会社の悪口をいう人はいませんでした。入社して約半年は午前中は教育時間があり、電子回路をみっちりと学ぶことができました。半年後に実習で体験したことを踏まえて再面接があり、私は製造を希望しました。私は高校のとき、ラジオを組み立てたかったのですが、牛乳配達のお金は全部母に渡さなけらば家計が苦しかったので、モノづくりをしたかったためです。寮に帰って同期の仲間と話す中で「製造は希望しなくたっていつでも行けるのに・・・」と言われました。
私は、モノ作りができ、その上給料をもらえるので嬉しかったことを覚えております。モノ作りも手引書はなく、自分で配線を工夫しなければならない面白さがありました。
会社には、同じ郷里の2年先輩がいました。先輩は雲の上の存在でした。会社の扱う製品は真空管からトランジスタそしてICと時代の先端を突き進んでいました。その最先端のICテスタ部門に先輩はいました。ときどき先輩は私の作業机の前を通っていくことがあり、その日も、いつものように先輩は私の前を通りました。ふと前方を見るとまだ先輩が立っていました。「関根(旧姓)くんよ、もっと勉強したくないか。その気があれば上司に話してみるけど・・・」と言われ、私は、頭の中が真っ白の状態で何が何だか分からぬまま「はい」と返事をしてしまいました。翌日には課長に呼ばれ、「来月から検査1課に移動になったから」と言われました。検査課といっても検査ではなく、製造で組み立てられた製品が仕様を満たすようにする仕事内容でした。
検査課には、見たことも無い測定器がたくさんあり、そのパネルの文字はすべて英文でした。そのパネルをスケッチして、寮で先輩にパネルの文字の意味と使い方を聞いて回りました。
この研究所のような会社のおかげで、回路図の読み書きができるようになりました。

サークル東雲


工高時代に奨学金をいただいていたおかげで、”育英友の会”から広報誌が届いていました。その中に500円ハイキングの案内があり参加してみました。はじめての行く先は神奈川県の高取山でした。そこで知り合った友から、育英友の会の広報部に誘われ、信濃町の育英会館に通うことが多くなりました。広報部の中の一人の女性に好意を抱くようになり、初めて女性と映画を見たりもしました。しかし、彼女は当時盛んだった学生運動に関心を持ち、すっかり会えなくなりました。彼女からは、男女の付き合い方を学ばせていただきました。
編集長の後任も決め、私は次の出会いを求めて”サークル東雲”のメンバー募集に参加しました。当時は、新聞紙面にペンフレンドや仲間募集の記事掲載がありました。
”サークル東雲”は50名を超える仲間が居て、いくつかの現場に分かれて活動するグループでした。
入会して間もなく新開拓の大田区班の責任者となり、仲間5名で聖フランシスコ子供寮での学習指導を中心とする、週一回の活動が始まりました。
そのころ私は3畳一間の生活でしたが、会社とボランティアサークル活動で充実した日々でした。
仲間の一人で看護師のTさんは、エイズ撲滅のため、単独で中央アフリカに行かれ、”アフリカ友の会”を主宰しました。(活動報告の書籍を発表し映画化もされ、のちに看護師としてナイチンゲール賞を受賞されました)
夏や冬の休みを利用して、新聞・ラジを通してワークキャンプを計画しました。多くのサークルとも交流をしました。
そんなとき、他のサークルに所属して居た妻との出会いがありました。
私が代表のときは、メンバーが200名近くになりました。

社会福祉法人に就職


父の交通事故死で一度田舎に戻りましたが、妻との結婚の約束もあり再上京し農家の婿養子となり、日本肢体不自由児協会に勤めました。電気には関係ない職を求めてのことでした。
事業部に所属し、啓蒙と活動資金を得る業務でした。”友情のはがき”・”友情の絵”なども担当させていただきました。”友情の絵”の入賞者への式典では現在でも悔やむことがあります。
一人の入賞児童はご両親と祖母がご一緒でした。上位入賞者は、式典後にバスで都内見学が予定されておりましたが、その児童は該当外でしたので、その旨をお伝えしました。
バスが出発して、後部座席から振り返りますと、そのご家族が残念そうに立ち尽くしておられました。車内には十分な空席がありましたが、私はバスを止めることをしませんでした。

やりがいを感じた時もありました。
ラジオ局の文化放送に50周年記念イベントを持ち掛けており、それが実現しました。現在の24時間TVのはしりみたいなものでした。
ドラえもんのサイン会も藤子不二雄スタジオ様のご厚意で、小田急百貨店の階段ロビーで開催でき、長打の列には驚きました。
しかし、半官半民の職場でもあり、一般企業からの私には、居心地が良いとは思えませんでした。

再び電子測定機器会社に

アドバンテストという企業に出向中にPCと出会いました。
ラップトップタイプのPCで、マイクロカセットテープにプログラムが書き込まれていました。テスト開始キーを押すだけで、接続されている機器が動き出し、一連の性能テストが行われテスト結果がプリントアウトされました
これから、PCの時代がやってくると思いました。また、この出向のおかげで、CPUを用いた回路図も書けるようになりました。

武蔵野マイコンクラブ

一人ではPCを学ぶこともできなくて、PC仲間を募りました。会の名前はメンバーからの提案で”武蔵野マイコンクラブ”となりました。
その中に、森田オセロ・将棋の開発者の森田和郎さんが参加されました。当時Basic言語が主流な中、C言語を教わりました。森田さんは、これからは、マイクロソフトという会社が・・・とも言っていました。

そのC言語を学んだおかげで、CPUのファームウェアが書け、近所の障がい者施設の方に入力支援機器を作りました。

作業療法士

作業療法士になりたかった


作業療法士という職業を知ったのは、結婚後で日本肢体不自由児協会に勤務していたときでした。
壁に学校案内が掲示されていました。聞いたところでは、ほとんどが大卒者が受験し、学校も少なく競争率も相当だと聞きあきらめました。
ひょんなことから、「できマウス。」プロジェクトを主宰している今、全国の多くのOT・PT・STや支援学校の先生方と接することができ、感謝しながら活動しています。

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